胎蔵山は、三重県美杉村にあって、点名は上多気。霧山とも呼ばれている。
朝,向島を出発。天気悪く、奈良県に入ると、雨になった。
途中、「三多気の桜」の所を通るが、係員が大勢いた。三重県に入り、飼坂(かいさか)トンネル手前に車を停めて、歩き出す。
飼坂峠まで700mの道標があった。
この道は、伊勢本街道になっていた。200mで腰切地蔵。立札があり、山賊が首を切ったり、腰を切ったりした逸話が残っており、そのような犠牲者を供養する為、建立されたとある。
飼坂峠に着いた。茶屋跡があり、あずまやができていた。
この峠は、「お伊勢参りして怖いとこどこか 飼坂 櫃坂 鞍取坂 津留の渡しか宮川か」と道中歌に歌い込まれ、険しい道が多い伊勢本街道の中でも、特に旅人に恐れられていたという。
峠には、今も伝説を残す地蔵が祀られ、往時を偲ばせている。
伊勢本街道についての案内板があった。この道は、神代の昔から飛鳥,藤原時代にかけて大和と伊勢神宮を最短距離で結ぶ、重要な道であったという。
平安遷都により一時さびれたが、南北朝以後、伊勢国司北畠氏が、現在の美杉村・多気に館を構え、多くの人々が行き交う街道に変遷した。その後、江戸時代から明治中期にかけての「お伊勢参り」大流行の時には、旅人から恐れられる、険しい街道でありながら、天照大神鎮座の地を求めた際の、伝承が多く残る「お神のお心に叶う」道として、多くの参宮客で賑わったという。
道標には、ここから上多気バス停まで1.6kmだが、ここからは伊勢本街道と分かれて、尾根に取り付く。
見ると、取付に小さなプレートがあり、イセ愛山会の名で、胎蔵山への目印がしてあった。
二万五千の地図を見ると、この先、電波塔の記号がある。道はしっかりしており、15分でNHK美杉奥津中継所に着いた。
なおも北に向かって行くと、胎蔵山の頂上であった。三角点のまわりに、イセ愛山会のプレートと、おなじみの、イセAOKIとマウンテンキッドのプレートがあった。
マウンテンキッドのプレートには、この山を源所山と呼んでいた。
この先、霧山城跡に下る道がついていた。
霧山城は、南北朝時代,初代伊勢国司北畠顕能が築いた山城で、標高560mの、天然の要害にあるという。車に戻り、あちこちの、満開の桜を見ながら、帰途についた。 往復走行距離 225km。
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