三重の山・「伊賀越の頭」


                  【山行報告】  記;山口敏晴

平成17年3月27日   「伊賀越の頭」  二万五千分の一<平松>
向島7:10−−−9:45錫杖湖−−−10:00峠....11:15伊賀越の頭(△655.0m三等三角点)....12:30車のところ−−−15:20向島 往復走行距離 245km


伊賀越の頭は、三重県芸濃町にあって、点名を杣谷という。
先週は、20〜21日の連休に、滋賀岐阜県境にある、上谷山1196.7mをめざした。
福井県今庄から、登山口のある広野ダムに着いた。
京都ナンバーの車があり、熊笹会の太丸さんの山仲間のS氏であった。山スキーで、三周ヶ岳1292.0mを登ってきたという。
今年は例年になく、雪が多いという。話をしているところに、みのハイクの3人がやってきて、明日、笹ヶ峰1284.6mを登るべく、ここに幕営するという。
私は、S氏から聞いて、上谷山を宇津尾の集落から取付くことにして、車を移動させた。

3/21,朝5時半に起きて、ワカンをつけて歩きだしたが、雪が多すぎて、おまけに腐っており、稜線までたどりつけず、撤退した。予定を変更して、敦賀市杉箸から、四等三角点のある、点名刀根500.2mの山を登ってきた。
藪山で道がなく、ここも雪が多かった。

3/27,朝向島を出発。県道42号で、伊賀越の峠に車を停めて、歩き出す。
天気よく、今年初めてウグイスの声を聞いた。
キジの姿もみかけた。いくつもの小ピークを越えて、伊賀越の頭に着いた。
プレート4枚あり、木立の間から錫杖岳676mが望まれた。
峠に降りると、最奥の民家に人がいて、聞くと、徳川家康の史蹟はないが、明治時代このあたりで、大きな水害があり、その石碑があるという。
家康の伊賀越の資料を探すと、天正10年(1582年)6/2,家康は泉州堺を出て、京都に向かった。
5/11,穴山梅雪とともに浜松を発ち、15日に安土城をおとずれた。
家康は、駿河一国加増を謝したが、十数人の近臣を従えた小人数であった。
6/2朝,家康たちは帰国の前に、いま一度、信長に挨拶していこうと思い立ち、京都本能寺に出向くことにした。
家康は百余人の供を連れ、堺を出立し、大阪・守口にさしかかったところで、本能寺の変を知る。

相談は早急にまとめられ、家康たちは早々、逃避行を開始した。
交野郡から、宇津木越を経て、山城国に入り、木津川を渡り、宇治橋より二里ほど川上の浅瀬を渉り、江州信楽・高見峠を経て、伊賀の上拓殖,鹿伏兎越えを通過し伊勢白子へ出て、海路帰国した。
鹿伏兎は、現在、関町加太(かぶと)あたりだが、高見峠とは、現在の信楽町多羅尾あたりであろうか。
文中にあった、音聞峠とは、御斎(おとも)峠のことであろう。
現在、宇治田原町奥山田には、「徳川家康伊賀越の道・遍照院」と書かれた、立派な道標が立っている。
この道は、まだ歩いてはいないのだが。資料とは、津本陽「青雲士魂録」を参考にした。初出は、別冊文芸春秋94年春季号である。